(今回は「遊びと天才」について気ままに書いてみようと思います。コーチングに絡んでいる気もしますし、コーチングと少し距離のある話かもしれないな、とも思います。楽しんでいただけたら、幸いです。)

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こんにちは、2019年度上期苫米地アカデミー卒業生の堂城(どうじょう)です。

本日は、友達の野球コーチの方とオンラインミーティングをしていました。

彼とは、月に一回程度、野球の技術や身体操作、日本の野球指導の問題点などについて話し合っています(僕が生徒役になり、あれこれ尋ね、彼から学ぶという形式です)。

(話し合った内容を僕の方でまとまった文章にして書籍化を計画中です。)

今回もかなり深い話をしたのですが、「遊び」の大切さについて話題が及びました。

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話の流れとしては、

まず、僕から彼へ

「日々の成長を自覚できるようになれば、子供たちの学びの自由度が明確に上がるはず」「じゃあ、日々の成長に自覚的になるための条件はなんだろうか?」

と言った問いを投げかけ、

それに対して彼が、

「どういう練習をするか選手主体で話し合って決めること。何をやるかを意識かすること。」

と回答しました。

で、論理が少し飛ぶのですが、

「自分が何をするか自分で決めることの究極形は『遊び』だろう。」と話が収斂していったのですね。

こうして改めてまとめてみると、めちゃくちゃ知的な会話だなー、と思いますね笑。

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で、午前中に彼と話して以降、遊びについて、ぼんやりと考えている次第です。

(さらに考えようと、つい先ほど、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』をamazonでポチりました。)

遊び、と、創発、について考えています。

遊び=自分(たち)で自分(たち)がやることをやりたいように決めてやること。

創発=これまでにない方法や考え方や知識を、前後の脈絡なく作り出すこと。

くらいの定義でいいでしょうか。

このように定義すると、遊びの中で創発が生まれるのは、当然だ、と感じますし、もしかしたら、遊びの中でしか創発は生まれようがないのではないか?とも感じます。

(子供に大人にはない創発性がみられるのは、自分というものに純粋に向き合っているからではないか、とこの文章を書きながら、ふと思います。)

以上の定義をコーチングと関連づけて理解し直すと、

「遊び=自分(たち)で自分(たち)がやることをやりたいように決めてやること」は、自分で自分のゴール設定を定めることと似ています。

そして、(現場の外側へ)ゴール設定をすれば、天才的なアイデアが無意識レベルで湧いてくるというのは、まさに創発性だと思います。

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「遊び」

というのは、とても素敵な活動だと思います。

というのも、他者の才能や創造性に気づくのは、他者が遊んでいる時だからです。

僕らは、僕らの目の前で無心に遊んでいる人に対して、天才性や独創性を感じ入るのではないか、と思います。

その人に遊び心があるから、僕はその人の才能を感取できる気がします。例外はあるかもしれないけれど、誰かの才能に心動かされる時、それは遊びの輪の中に入っている時に限るだろう、と思います。

「究極の遊び」=「その遊びに参加している誰もが好き勝手に振る舞っている状態」ではないか、と思う。

そして、「誰もが好き勝手に振る舞っている状態」=「誰もがそれぞれの能力を解放している状態」と考えても良いのではないかと思う。

遊びのすごいところは、参加している人全員が才能を発揮している点だろうと思います。

多種多様な人々が参加できる場が「遊びの場」であり、多種多様な人々が参加できるとはすなわち、参加している人全員が好き勝手に振る舞えている、ということでもあるだろうからです。

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少し、話が逸れるけれど、僕は、子供の頃から人から「天才だ」と言われることが多かった気がします。

自分で言うのもなんだけれども、僕は謙虚なので、「天才だ」と言われても、「うーん、そうかなあ」とか「いや、本気で言っているわけじゃないんでしょ?」と思ってきました。

でも、かれこれ、累計100人くらいから「天才だ」と言われたら、「ま、そうなんだろうな」とこの頃では素直に喜ぶようにしています。

で、「遊び」に話をつなげると、「僕は、だいたいいつも、ふざけたり、遊んでいる気分で他者と接した結果、気が付いたら才能を発揮しており、だから、『天才だ』と言われるのではないか」と考えるのでした。

大学生の頃、少し気になる女の子と部室で二人きりなった。

何を話せばいいのかよくわからなかったから、とりあえず、2時間くらい嘘の経歴を話してみた(まず、相手の家族関係を聞き出し、相手の家族関係と微妙に重なる家族関係を僕がもっていると話した。)。

2時間後、その子がすっかり僕の話を信じていることが疚しくなり、「今話したことは全て嘘なのだけれど」と言ったところ、

めちゃくちゃウケた。

なぜ彼女が爆笑しているのかよくわからなかったのだが、平然と2時間近く嘘をつきまくった上、平然と嘘だったとバラす人間の存在が珍しかったのかもしれない。

ともかく、嘘(=遊び)でさえ人から評価されることがある。

例えば、A・A・ミルン『クマのプーさん/プー横丁に建った家』、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス/鏡の国のアリス』などの嘘が時を超えて評価され続けている。

これは逆に言えば、人間は、たとえ嘘(=遊び)でさえ、そこに才能を感じ、優しく肯定してくれる。

嘘が嘘として、受け入れられる、というのは、とても優しい人間の性質だと思う。

おそらく、嘘を嘘として受け入れて評価すると言う行為も遊びの一種なのだろう。

(他者から評価されるのも遊びで、他者を評価するのも遊びなのだとしたら、そこに嫉妬や競争などと言ったものは、ない。)

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散歩中や、何気ない日常生活の中で、自分が遊んでいるだろうか?と自問している。

気持ちが遊んでいる時、感覚的な表現になるが、僕の意識はかなり広がっているような気がする。

具体的な例で言えば「気持ちが遊んでいる状態で散歩している」と、普段は気づかない小道や道端のちょっとしたものに気持ちが向かう。

散歩中、「この抜け道面白そう」と感じるのは、すでに気持ちが遊んでいるからではないか、と思う。

この感覚をさらに強めれば、普段は感じられないものが感じられるようになるだろう、と予感する。

(普段は感じられないようなものを感じ取っている人の感じを感じ取ることが他者の才能を感じ取る、と言うことではないだろうか?)

音は音だ。

モーツアルトの交響曲が音楽に聴こえるのだとしたら、僕らの心が事前にそういうふうに働いているからかもしれない。

草や木のざわめきや川のせせらぎや鳥の鳴き声などの重なりが、音楽的に感じられるとしたら、それは、事前に耳に入る音全て音楽としてしまおう、という遊び心が働いているからではないかと思う。

幽霊を見にいこう、と思って、廃ビルに忍び込み、実際に、幽霊っぽい何かを見るというのも、事前にそう言う遊び心を展開しているからだろう、と思う。

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実は、もう一点、もう少し踏み込んで書きたいこともあるのだが、それを書くのは、なんだか恥ずかしい気がするので、やめておく。

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最後になるけれど、冒頭で触れた野球コーチの友達のHPのURLを掲載しておきます。

https://hamamotobaseball.wixsite.com/my-site

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