禁断のくまーコーチングʕ •`ᴥ•´ʔ∩「自責と他責と」

いわゆる「自己責任」について、ルー・タイス先輩の仰っていたニュアンスは、日本では新自由主義の文脈で使われてきたような強者に都合の良い「自己責任」とは異なると思うのですが、背景の違いや語の翻訳もあり、ずれがちなのかもしれません。

先輩が言いたかったのは、have to(自分ではない何かのせい、他責的)になってきてしまったらwant to(自分が決める、自責的)に立ちかえるというか、「やめちゃってもいいけどさ…やりたいって君が言ったんだぜ。あれは嘘だったのかい?」(*妄想です)みたいなことではないのかと思うのですよね。

(とはいえ、私はルー先輩について多くを知らなく、原著で背景含めた文意まで読み取る英語力というのはからきしなので、詳しい方からつっこみいただけたら嬉しいです⊂( ̄(工) ̄ ))

何が言いたいかというと、日本語の「自己責任」に付着したイメージに配慮することなく、人に「自己責任」を促す姿勢って、ものすごく他責的だと思うんです🤔

おおまかには「しっかりとした線を引く」というのが、縁起っぽくないと思えるわけですが、現実問題としてもこうした矛盾は、信頼関係や信仰の妨げになる気がしてなりません。φʕ•ᴥ•;ʔ

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