
僕はふざけるのが好きである。
大人になって、働くことになって、例えば外資系のなんたらでバイトすることになった際
「お前、ふざけてるの?」と言われたりもしたけれど、
その度に、心の中で「はい」と思っていた。
流石に、あんまり、本音を、むき出しにしてしまうと、相手を傷つけてしまうから、
その場では「ははあ、ふへへ」みたいな感じで、言葉を濁していたけれど。
「はい、ふざけています。いや、ふざけていると言えば、ふざけているし、ふざけていないと言えば、ふざけていないんですよねー」と内心思っていたのだった。
そんな僕は、気がついたら、仕事を辞めていたりもした。職を転々としたりとか。
その一方で、職場で出会った一部の人たちからはなぜかとても良くしてもらった。「堂城くん、息子のお下がりだけど、この洋服いる?」とかよくものをもらった。よかった。
ところで、僕にとって「おい、お前、ふざけてるの?」という問いかけ、という恫喝は、
「おい、お前、堂城幸太なの?」という問いというか恫喝とほぼ同じだ。
だって、僕は、堂城幸太であり、ふざけているからだ。
「おい、お前はAなのか?」「おい、お前はBなのか?」という問いかけは、
僕がAであり、かつBである場合、どっちもおんなじことだ。
「お前は、堂城幸太なのか?」と問われた場合の答えも、
「はい、そうらしいです。いや、でも、そうじゃない気もします。でも、まあ、戸籍上はそうなのでしょうね」といった感じになる。
「お前は、ふざけているのか?」と問われた場合の答えも
「はい、そうですね。ふざけると、いろいろ思考が自由になりますし、饒舌にもなって自分を表現でき良い気分です。しかし、本当に、この程度のおふざけでいいのだろうか。自分は十分にふざけていると言えるのだろうか?という疑問はいつも感じています。私は、本当に、ふざけているのだろうか?わかんなくなってきちゃった。はてさて。人生と自分が迷子だ」
みたいな感じになる。
僕は十分ふざけているのだろうか。
僕は十二分にふざけられているのだろうか。
さて、僕は「お前ふざけているの?」とよく問われたり恫喝されたのだけれども、その度に思ったのは、「まず、ふざけることはなぜ悪いとあなたが考えるのかを明示してくれないと困るがな」であった。
例えば、救命手術中の医師が「あひゃひゃひゃうひゃらぽー」などとふざけ出したら大変だが、僕は、医師ではないし、じゃあ、「おひょひょひょふんにょろぼんぼん」などとふざけても良くないですか、と僕は、しばし考えつつ、これまで生きてきたのだが、あまり、よくわかってもらえないようであった。しかし、その医師が「あひゃひゃひゃうひゃらぽー」をすると、「患者の回復が早くなるんですよねー」などと考えている場合はどうなのだろうか?
なんだか、まるでコーチングではない気がしてきたが、一応着地点は用意しており、
僕は、ふざけることと、超真面目にあれこれ考え行動することは両立可能、というか、ふざけずに、真面目になることもできないし、真面目にならずふざけることも難しいんじゃないかなあ、と考えている。
なぜ、そうなのかは良くわかんないんだけど。
たとえば、ずっと怒っていたら、怒りの対象を忘れちゃうじゃないですか。
でも、怒ったり、笑ったり、泣いたり、また、怒ったりしていると、怒りの対象がより明瞭になりうる気がします。
いや、どうだろうか。
いや、どうなんでしょうね。
久しぶりに、記事を書こうと思って、書き始めたのだが、論理的な筋道を用意せぬまま思っていることを書いてしまった感が否めない。
けど、まあ、ずっと怒り続けるというのも、技術の問題だと思う。怒りというのは、喜びん裏打ちされておらなくちゃ、怒り続けられんやろう、と当たり前のように思う。
ふざけることと怒りはまあ、話が違うが、例えば、この世界の精緻さに感動することが真面目であると定義すれば、その感動とふざけることは裏腹なようでいて、裏腹だからこそ、表裏一体だと思う。
書きながら、ふと思ったが、感動なくして真面目さなどあり得ない。でも、感動は、やがて崩れ去る。なぜ、崩れ去るかっていうと、ふざけた気持ちがむくむくと湧くからだ。でも、まあ、ふざけた気持ちと真面目な感動は実は同じ船の上に乗れる気もする。
なんか、話がそれた。
なんの話をしたかったかというと、中観であった。
ふざけることは空観につながり、
まじめなことは仮観につながるか、と思ったが、微妙にずれている、というのが書いてみた今の(ところの)感想である。
でも、これが僕なりの中観に対する体感なのであった。
ひとつになりたい、けど、ひとつにならない。
それはそれで味わい深いことだと思う。
石牟礼道子さんと、ナウシカさんのことを考えつつ、これを書いたのは実は内緒である。