ややメモ的な記述になってしまうが、ふと、経験知がまとまりを持ったので記しておく。
僕は、人と接していて、照れてしまうことが、ままある。
照れる、というの、恥ずかしがる、というのは、重なる面もあるかもしれないが、異なる反応だと思う。
照れる際は、事前にリラックスしている必要がある。
(逆に、緊張した状態で、恥ずかしがることは可能だろうと思う。)
一対一の対人関係で、あるいは、少人数の安心感の或る対人関係で、僕はしばし、照れる。
例えば、先日、とある数学教師の人からマンツーマンで教わっていたのだが、照れてしまった。
あるいは、日々、武術の稽古に参加しているのだが、そこでもちょくちょく僕は照れる。
リラックスした状態で、有体に言えば、伸び伸びとした状態で、誰かから何かを学んでいる時、僕は、照れることがある。
つい先日の数学の授業での照れがどうにも心地よく、なぜ俺は人から何かを教わっている際、照れるのだろうか?そして、照れるとなぜ心地よいのだろうか?などと考えた。
ややとっぴな解釈が生まれた。
現時点の自分と、未来の自分が対面しているから照れるのではないか。
武術にしろ、数学にしろ、何かを教わることは、成長を伴う。
と言うことは、教わることを通して、今の自分と未来の成長を遂げた自分がつなぎ合わされていると言うことだろう。
信頼している、師を前にしている僕は、しばし、未来の僕を見てしまう、あるいは、今の自分が未来の自分であるかのように錯覚してしまう。
(今の僕、と、未来の僕が、花嫁と花婿であり、師が仲人というイメージが浮かんでいる。なかなか、シュールである。)
教わっている場面で僕は、ついつい「未来の自分ならこれくらいできるだろうな」と言う感覚で、動いたり、発言したりする。
もっと言えば、未来の自分の姿がチラッと見えた気がして、「あ、どうも」と会釈をする。
で、はたと、正気に戻り、「いやいや何しとるんや俺」と照れるのである。
と、思われる。
たとえばこうした文章を書くと言う行為にも照れが内在しているけれど、ここにも、未来の僕
(書き終えた僕、書き終えた文章が人に読まれる状態にある僕、人に読まれた後の僕)のリアリティと今この文章を書いている僕のリアリティが重なって、照れるような歯痒いような気持ちになる。
そもそも、文章は、発表されるまで、人に読まれる可能性は0だ。
そして、書いている最中は、発表されていない。
ということは、人に読まれることを想定して照れながら書くというのは奇妙な行動だ。
でも、その奇妙な照れの中で文章が書かれることがままある。
ちょっと、話がそれた。
僕がここで書きたかったのは、
僕は、奇妙なことに、人から何か習っている最中、しょっちゅう照れている。
で、その照れは、未来の自分の今の自分がなぜか知らないけれど重なってしまい、その結果照れてしまうのだ、と思われる。
で、そうした照れを生徒に誘発する教師っていいなあ、と思う。
と言ったことだった。
もちろん、照れ以外にも、何か別の反応をすることもあるだろう。
でも、照れっていいなあ、とも思うのだった。
例えば、高校生球児が本気で甲子園に出場している自分をリアルに想像してしまったら、なんだか急に照れてしまう気がする。自分に自分で憧れてしまうというか、モジモジしてしまう。こともあるんじゃないかなあ、と思う。
そういう感じの照れを戦略的に誘発する教師になろうかな、とふと思った。